青春時代とはなにか?「すべき」「自由・個性・私生活」

  おはようございます😃 くんちょです。

 

  現在2018年9月12日、大学生1年の夏休みが終わろうとしています。シラバスとにらめっこして、後期の履修登録でもしっかり考えようかという頃です。 

 

  そんな区切りの時期に、(僕の場合)ふと考えさせられる問いが「自分は何をしてきたのか?」

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 思えば合格発表日の前より、ずっと前から「大学に入るため」に多くの時間を割いてきた。

  受験の影がひたひたと迫ってくるのを友人の背中から感じて焦燥感に駆られた高1の最後。          

合格率の統計を示して早期開始を謳う予備校のスローガンの前で、本腰の入らない高2。

 すでに手遅れ感の中で本腰を入れ、逃避し、本腰入れという具合だった高3。

 第一志望を不合格になり、100万円と一年をかけて浪人を決意したあの春。

  自分の存在理由が一つになった稀有な期間を過ごし、陰鬱とした気分だったあの予備校生活。

 合格発表の日。

その全てが今に繋がっている。では、僕は一体大学に入ってなにをしてきたのか?

 

 

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  合格のために費やした投資それ以前に、青春は充実させる「べき」ものという価値観そのものが、僕に「何をしているのか」と問いかけてくる。

 

  たしかに、この価値観に普遍性はない。昔、青年期の人間が職が世襲され(職として)半人前の若者としてみられた時代があった。自分の私生活での充実より、仕事人としての鍛錬が要求された時代である。

 

 しかし、幸福を追求するという点で、「青春を充実させる『べき』か」は普遍的な欲求の一部と認めなくてはならない。

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では、青春の充実や幸福とはなんであろうか。

 ここで、若者特有の問題が発生する。青春時代の幸福と社会人時代の幸福は、両者一定の矛盾を孕むのだ。

 

  青春時代の幸福とは私生活の充実であり、多くの人にとって「勉強」はその中にない。しかし、社会人としての成功に勉強がもっとも簡単で伝統的で整備された手段であることは周知の事実である。

 

  ペリー来航以後、多くの時を先進文明たる欧米に追いつこうとしてきた「発展途上国日本」というアジア・アフリカ的事情が、今の高等教育を重視する社会的人事体制を作りあげたのだ。今までは。  

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  翻って現在、日本では芸能界・新興産業の指導者・音楽界を中心に盛んに「自分の意思を尊重しよう」との大合唱がなされており、「身分証明」以外なにも意味しない形骸化した高等教育体制への反旗があちらこちらで上がっている。

 

  また、AIの発展によって、数十年の間に職業の再編が行われることもわかってきている。

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青春時代の充実とはなにか?それはおもに二つの方向性をもつ。

1、私生活の充実

2、将来(職業)の準備

 

1を選べば社会人となれば苦労するかもしれない。ただし、幸福を求めるという人間の持つ第1法則に合致する問題でもある。

 

2を選んだとしてと、強固に序列化された学歴は揺らぎつつり、AIの台頭で職業もどうなるかわからない。

 

「今日の技が明日の我が身を支える」という時代は終わりつつある中で、わたしは今年の夏をどう超えるのだろうか?